ミロンゲロスの部屋(タンゴを受け継いで行くという事)

アルゼンチンタンゴの先駆者である“ミロンゲーロ”達によるインタビューをシリーズ化しました。

このインタビューの目的は、古い時代より生き,踊り続けて来たミロンゲーロ達の声を聞く事によってアルゼンチンタンゴの歴史、文化,美学を学び、伝統を受け継ぐ事が出来ればと願い始めたものです


2011年1月31日月曜日

インタビュー6:マリオ⋅オルランド

今回のインタビューはタンゴDJです。ブエノスアイレスで今最も有名なDJマリオ⋅オルランドさんです。この日はスンダーランドの主催者マテラ夫妻を訪ねてインタビューに出向いたのですが、マリオさんとの約束は入れていませんでした。でも親切なマテラさんの計らいでマリオさんは速やかにインタビューに同意してくれました。時はマテラ夫妻のインタビューした直後で、そろそろミロンガが始まろうとしていた所です。今迄ガラガラだった席に人が座り始め、食事をしたり、挨拶に立ったり、ダンスフロアーにはまだほんの数カップルしかいません。DJにもインタビューしたいと思っていたのでとても嬉しかったです。


Q. DJを初めてどれくらいになります?

30年前後になります。ここ(スンダーランド)では10年位です。15年以上やっている所もあります。

Q. 曲を掛ける時、何を基準に選曲されるのでしょう?

私が掛ける曲は、その地域(バリオ)のスタイルに合わせて選びます。それぞれのバリオには独自のスタイルがあり、ステップも違います。ここ、ウルキッサのスタイルの特徴はエレガントでステップが長い。ブエノスアイレスの中心地のようにダリエンソやビアジ、ロドリゲスなどの早いリズムの曲を多く掛ける所もあります。同じ曲でも場所が違うと好まれません。例えば、スンダーランドでロドリゲスを 掛けるとします。皆踊る事は踊ります。しかしあまり喜ばれません、なぜなら彼等が踊るスタイルに合わないからです。ここの人が好きなのはタントゥーリ、カロ、トロイロ、ディサリ、ダゴスティーノ、、、ディサリは多く 掛けますね。
  
今私が掛けているこの曲はディサリのスタイルを持った新しいオーケストラのものです。ディサリの様に聞こえますが、これは若い人達によって形成された彼等独自の個性を持った新しいオーケストラです。この様に少しだけですが新しい曲を流す事によって、ここの人々に徐々に慣れていってもらうのが目的です。このミロンガの持つ伝統は保ちつつ、同時に私は新しい人々、新しいミロンゲロ達にも合わせています。ミロンガの雰囲気を変える事なくレパートリーを増やしていくのです。

Q. 季節によって曲を選ぶ事はありますか?

季節で選曲をする事はありませんが、季節によって来る人々が変わるので、来る人々に合わせて私は曲を変えます。例えば,4月から8月などのローシーズンには、ミロンガの雰囲気は変わります。観光客は少なく,地元の人ばかりだからです。また、ヨーロッパからの人が多い時期、日本、もしくはアメリカからの人が多い時期というのがありますので、その時の雰囲気によって曲を変えます。

Q. 外国人と地元の人では曲の好みは違いますか?

外国人はもっとオープンマインド(許容量の幅が広い)と思います。アルゼンチン人が聞きたいオーケストラは5つだけです。それ以外は何も聞きたくない、彼らが聞きたいのはそれだけです。DJの仕事で海外を周り始めた時、外国人のDJが”この曲知らないの?”と聞いてきました。知らないのではないのです、誰も踊りたがらないからかけないのです。なので外国人に対して私はもっとオープンマインドになるよう心掛けます。

私が曲を掛ける時にはいつも(その曲が力強く鳴り響くように)たくさんのエネルギーを注ぎ込みます。しかし外国人のDJの音楽の中にはあまりエネルギーを感じられません。

Q. 地元の人々はどのように音楽を受け入れますか?

思うに タンゴでは常に音楽に対する強い執着があります。例えば,30年代のミロンゲロス達は30年代の音楽に踊り慣れていたので、40年代の曲が流れ始めると”こんな曲では踊れない!”と言いました。彼らは,その音楽に慣れていないなかったからです。当然50年代にも同じ事が起こりました。特にこの時代はたくさんのオーケストラが出た時代で、例えば,ディアンジェリス などメリーゴーランドミュージックと呼ばれました。 それは彼等が今まで踊っていた踊り方と音楽がしっくり合わないので受け入れられなかったのです。

Q. 一般的にDJの方も踊るのですか?

いいえ、殆どのDJは踊りません。踊れないです。私は,DJとして踊れないのは大変な間違いだと思います。私は25年間踊っています。サルサも踊るし、DJもします。他のスタイルのものも好きです。ディスコ(クラブ)結婚式などいろいろな種類のパーティーでDJをしていた事もあります。 

Q.  他の所でDJをするのはどんな感じですか?

その経験は私の音楽にエネルギー(響き)を注入する柔軟性を与えてくれました。 例えば、結婚式で会食をしている時とします。DJ は静かなリラックスする音楽を掛けているのに私は気がつきました。その曲はとても穏やかで眠リをそそるような音楽です。音楽があまりにも静かな為、食事が終る頃にはみんなリラックスしきっていて,とても立ち上がって踊る状態ではなくなっています。(笑)なので私は、彼等がかつて10年前によく踊っていた曲を掛けてみました。よく知っている曲を掛けてその気にさせるのです。このような色々な技を使い、私は人々を立ち上がらせます。この様に,タンゴでも人々を踊り続けさせるのです。

Q. ということは色々な角度から人を観察する能力が必要な訳ですね.

DJというのは、ダンスフロアーの精神科医だと思います。そこにいる個々の人ではなくダンスフロアー全体です。昔一度、友人の人類学者に招かれダンスフロアーの人類学についての講話をした事があります。タンゴには色んな性格の人がいるからです。例えば,午後のミロンガに来る人と夜のミロンガに来る人は違います。アフタヌーンミロンガに来る人たちは何らかの事情がある、今の自分が判らなくなってしまった当惑した人たちです。何かから解放される為、問題を忘れる為にやってきます。夜のミロンガに行く人は、ただ楽しい時間を過ごしたい人たちです。

Q. DJという仕事はどうですか?

11年間DJをしているミロンガがあるのですが、ある夜、1927年のカナロの曲を掛けていました。曲はとても美しくフロアには人がいっぱいでした。人が多すぎて動けないと皆文句を言っていました。一人の女性が踊っていて、その女性が寄って来て言いました。”この曲止めてもらえませんか。気が滅入ってしまいます。” わたしは、”それは申し訳ない,でも私はDJであなたの精神科医ではないのです。”と答えました。明らかに彼らは、踊れなくて文句を言っていたのですけどね。(笑)

この仕事は,とてもストレスがたまります。ストレスに耐えきれずDJを辞めた友達は沢山います。人々は決して満足しません,いつも非難してきます。皆を喜ばせる事は不可能です。感謝される事が少ない仕事です。

そろそろブースに戻って曲を代えないといけません。

お時間頂き,ありがとうござました。









精神科医:ご存知かもしれませんが欧米では精神科医をサイコセラピストと呼び一般の人が気軽にかかります。特に中流以上のインテリ系の人は自分のセラピストがいます。ちょっと肩がこったので指圧に行く、位の感覚です。そしてブエノスアイレスでは欧米以上にサイコセラピストにかかる人口がとても多いんだそうです。面白いですね。



(その他)



マリオ⋅オルランドは本名です。芸名ではありません。よく聞かれるんですけど。

私は火曜日から日曜日までDJをしています。木曜日と金曜日はミロンガを2つハシゴします。午後3時に出て朝6時に帰宅します。(苦笑された顔を見直すと、お日様とは関わりないような顔色です)

伝統的でない新しい曲をかけるミロンガもあります。私がDJしているミロンガの中にはゲイのミロンガもあります。(La Marshal)。あきらかに,伝統的ではありません。そのミロンガではエレクトロニクスや,ギリシャの音楽などかけます。ゲイミロンガと言いますが,ゲイではない人が沢山来ています。



翌週の木曜日、都心にあるアフターヌーンミロンガ、エルアランケに行ったらマリオさんがDJで偶然の再会をしました。まず“どう?曲の違い判る?”と聞かれ、なるほど、確かにここではもっとチャッチャカ速い曲が沢山掛かっていました。先日とは違ったカジュアルなTシャツ姿で、私の緊張感もすっかりとれました。

2010年6月26日土曜日

インタビュー5:スンダーランドクラブ 

今回はスンダーランドクラブ ”ラ・ミロンガ・デル・ムンド”の主催者グラシエラ&カルロス・マテラ夫妻のインタビューです。 スンダーランドはブエノスアイレスの中で最も重要で評判の高いミロンガのひとつで、ブエノスアイレスの北ヴィジャウルキッサ地方で毎週土曜日に行われています。私はアルゼンチンへ旅立つ前に彼らにインタビューのお願いをしグラシエラとカルロスは快く引き受けて下さいました。このインタビューは2009年12月12日ミロンガの前に1時間程行いました。







スンダーランドはいつ設立されたのですか?

スンダーランドクラブとは地域のコミュニティセンター(公民館のような機関)で93年前に設立されました。ミロンガが始められたのは1940年代です。

あなた方(マテラ夫妻)がミロンガを始められたのですか?

始めたのはタンゴの作詞家で、マリオ・バティステラと言う人です。
 
あなた方がこのミロンガを始めたのは何時からですか?

10年程前から始めました。バティステラ亡き後たくさんの人が主催しましたが、私達に変わって今日まで10年くらいたちます。このミロンガの名前はバティステラ以来”スンダーランド”でしたが””ラ・ミロンガ・デル・ムンド”(世界のミロンガ)は私達が主催している事を表しています。

”エル・ムンド”とい名前の裏にはどんな意図があるのですか?

なぜならガビートや、グロリア&エドワルドのようなタンゴを世界に広めた全ての偉大なダンサー達は皆このクラブから生まれたからです。

スンダーランドはヴィジャウルキッサの地域で創られた特殊な機関で、他のミロンガとは違うと聞きますが、それはどう言った意味なんでしょうか?

このクラブは多くの重要なダンサー達によって出来上がったからです。古い時代から言えば、例えばフィニト、ペトロレオ、ポルタレア、ビジャラソ、ランパソなど。そしてに次の世代にはバラマセダ、彼はウルキッサ出身ではありませんがここで踊っていました。そして、ガビート、ソット,リバロラ、マリア、グロリアとエドワルドなどがいます。皆ここから出ています。

それらのダンサー達の両親もダンサーだったのでしょうか?

いいえ、全てそう言う訳ではありません。ミセエ家のように、子供が全員ダンサーであるケースもありますが彼らの両親はダンサーではありません。ハビエルロドリゲスはここで踊りますが、彼の両親はダンサーではありません。

では、たまたま偶然この地域がよいダンサー達を生み出したのでしょうか?

いいえ、他の地域にもたくさん優れたダンサー達はいました。しかしここウルキッサでは他の地域に比べ質、量共に最強のダンサーを生みました。 よいダンサー達が又よいダンサー達を呼び、出来上がったのです。偶然ではありません。訳があるのです。それはタンゴの黄金時代(40年代)に起こった事です。それらのダンサー達は誰が見ても認識できる、それぞれ違った独自のスタイルを生み出しました。それはカミナンド(歩き)に重視したスタイルです。それはここのダンスフロアーが広い事も要因のひとつでしょう。

その頃この辺りにはたくさんのミロンガがあったのですか?

たくさん、たくさんのミロンガがありました。

そしてここのミロンガだけが残ったという事ですね。

こことシンルンボだけです。たくさんのコミュニティーセンターは残っていますが、ミロンガはもう行われていません。

なぜこのクラブが残ったのでしょうか?

不思議ですね。ここは見ての通り特別な雰囲気がある訳でも無く、高級感もありません。それなのに何故かそうなりました。おかしな物で,フロアーやカーテンなどたくさんの内装を凝らしてみても巧く行かなかった所は沢山あります。ただ何かの力でここが生き残ったとしか言いようがなく、説明する事はできません。私達は宣伝すら殆どしていません。やると言ったらただ,次の週に誰が踊るかというチラシをテーブルに置く程度です。

70年代も営業されていましたか?

いいえ,(とても寂しそうな、厳しい顔で)その頃は独裁政権のころなので,全てのミロンガは閉鎖されていました。再開されたのは80年代です。はっきりとした年は覚えていません。

その頃も皆さんは踊っていたのでしょうか?

もちろんです! (一変して笑顔に!)私達はその頃も踊っていました。その頃私達は何をするよりも増して踊っていました!踊らずにはいられない仲間同士で集まり、20から30のカップルで程いました。私達は毎週集まっては一緒に食べたり踊ったりしていました。

DJはずっと同じ方なのですか?

そうです,マリオ オルランドといってミロンガを始めた当初から10年間同じです。彼にもインタビューしたいですか?    
したいです!ありがとうございます。

主催者として一番大切な事は何ですか?

お客様とふれあう事、私達はエネルギーや暖かさを供給し、家にいる時のような快適さを与えます。一人一人に注意を払い,歓迎し、もちろんよい音楽を提供します。

長年タンゴシーンを見て来られた主催者としてタンゴにおいてどんな変化を感じますか?私はタンゴは変わってきていると思いますが、あなたの立場からはどう思われますか?

そうですね、確かに変化はあります。若い人たち,特に若い世代の人によって変えられて来ています。タンゴシーン全体でいえば変化したと思いますが、しかし 、ここウルキッサのクラブ内では伝統を守っていると 私達 は信じています。私達はいつもタンゴの根源に戻る事に心掛けています。

私がこのインタビューを始めた理由のひとつとして、 急激な外国人の増加がタンゴを変形させているのではないかと思ったからです。

 いやいや、日本の方にそんな事を言われるとは。日本人の方々は我々アルゼンチン人以上に礼儀正しい。我々のほうがよっぽど無礼な事はしょっちゅうだ。

ありがとうございます。でもこのブログはアメリカから発信し、英語がメインです。英語圏のダンサーをターデットに書かれています。
私達のような外国人が正しくタンゴを理解せず、コード(尊重 礼儀 規則)など知らずに、また本質を判らずにいる事が、タンゴを何か別の物に変えてしまっているのではないかと思っているのです。私はそんな人達にタンゴは形を踊るだけでなく、もっと他にも知らなければいけない事があると伝えたい。なぜなら私はどの外国人も、本当のタンゴを知りたい踊りたい思っていると思うのです。私達は、無関心な訳ではない,ただ無知なだけで、ただ知らないだけなのです。そこでもしも差し支えなければ,外国人のどのような箇所が問題だと感じてらしてのるか教えて頂けないでしょうか?それによって私達は学ぶ事ができ,よりよく踊れる様になると思います。(この質問によって彼らはかなり困惑した表情になりましたが、心を開いて正直な話をしてくれました。)

私が彼ら外国人を見ていて思うのは、確かに彼らはとても多くを学びたいと思っている事が判ります。しかし問題なのはタンゴの繊細な部分にはまるで気に留めない。彼らは,技術的な身体の動きだけを学びたいようです。コードについて言えば、彼らは踊っているとき,他のカップル達も周りにいるという事に対して配慮がありません。一緒に踊っているダンスフロアーの人達への注意や気遣いがまるでありません。あっちへ行ったと思ったら、今度はこっちへ行ったり、自分たちの事だけ考えている。マナーがありません。追い越したり、割って入ったりとても失礼です。また、オープンスタイルで踊ったりして、ダンスフロアー上での妨げの1つになっています。なぜなら抱擁は大切な伝達機能であるからです。

私が最近ミロンガへ行くと見られるのは、大多数は引退したお年寄り、次に観光客そして若いアルゼンチン人は皆プロですね。

いやいや、全くその通りで、、、。最近では生徒よりも先生の数の方が多い。本当に先生の数が多くて、ダンスフロアーは” マエストロ”で一杯の状態です。

ずっとその様だったのですか?
 
昔,人々はただ楽しみのためだけに踊っていました。誰もタンゴでお金を稼げるとは思っていなかった。昔は皆で学びあっていました。他の人が見ている所で色んな形を試してみたり、それを今度は自分でやってみたり、お金を払ったり,料金をとったりする物ではありませんでした。男性は男性同士で練習していました。プラクティカは男性のみで行われていました。なぜなら女性はその頃タブーだったのです。また,当時違ったのはよい女性のダンサーは上手に”伴う人”と呼ばれていました。なぜなら昔は女性のパートはもっと複雑な物でした。今の女性達は自由に自分のパートを踊っています。

最後に、あなた方の 将来のタンゴへの 願いを教えて下さい。
 
私達の願いはタンゴがもっと発展して,世界中に知れ渡る事です。世界と言っても色んな意味があります。全ての文化や人々にと言う事です。もっともっと有名になったらもっと違った文化に取り入れられるでしょう。でも正しい方法で根源を変えずに。。現在たくさんの場所でタンゴが踊られていますが、皆さんタンゴの本質や伝統を理解せずに踊っているような気がします。
私は,タンゴの繁栄を願っていますが尊重とタンゴの本質の理解を忘れないで、タンゴを何か別のものにしないで欲しいです。伝統にそった踊りをして欲しいです。

お時間頂きありがとうございました。





2010年1月24日日曜日

インタビュー4:カルロス & ロサ ペレス


今回は伝統あるミロンガ、スンダーランド⋅クラブでクラスを受け持つカルロス ロサ ペレス夫妻のインタビューです。ペレス夫妻は2009年サロンチャンピオンの山尾夫妻カップルを含め、他にも多くの世界チャンピオン、入賞者達の先生です。とても常識のあるダンサーだと思いました。


2009年10月 ブエノスアイレス

くみへ
オーストリア,デンマーク、ドイツ、ロンドンそしてイタリアへの旅から帰国し,今カナダに向けての旅行の準備をしています。あなたが送ってくれた質問への回答を終えました。このテーマに関して書面にて返答するのはあまり得意ではなく、どちらかと言えば会話形式の方が得意だと思います。おしゃべりの方がよりわたし好みですが,今回は距離があまりにも離れている事とあなたと“ミロンゲロスの部屋読者への尊敬の念を込めてここにしたためました。

カルロス ペレス

私は1952年に踊り始めました.私よりも10歳〜15歳年上の仲間に混じって練習しながらタンゴを習いました。彼等は当時大変名の知られたミロンゲーロ達でした。その後は当時ブエノスアイレス地域にあったいくつものダンスクラブで踊リ始めました。そこではタンゴが音楽の女王として扱われ、多くの人々がタンゴの音楽を好んで踊っていました。

ローサがタンゴを始めたのはその何年か後です。彼女は自宅で彼女の兄と練習をしていました。その兄はその後のある土曜日に彼女を踊りに連れ出した人です。私達は結婚した1964年頃に踊りに行くのを止めました。タンゴに熱中した生活は世間的によく見られなかったので二人で家庭を築く事に集中する様決意しました。

その時代になると、踊りに行く所は殆どなくなってしまいイベントなども多くは開催されず、またそういったものはもっと上級者で年配の方々よって開催されていました。若者のコミュニティーではジャズや,スイングを踊ったり,タップを習う人が多かったです。後にイタリアからのスウィングが入って来て、それ自体はあまり流行りませんでしたが、それが,アルゼンチンの若者の間で爆発的に流行ったロックンロールの元です。(今でもアルゼンチンでは盛んに踊られています。)

私達は1994から再びプロとして踊り始めました.(それまでの間は通常家族同士で地域内で踊っていたからです。)たまたまある日私達は最初にタンゴを教わった素晴らしいダンサーでありインストラクターであるホセ“ランパソ”バスケに会いに行きました。私達はかつて若い頃近所に住んでいて,また彼は私達の師でもあった為、彼は私達にとてもよくしてくれました。その出会いはクラブ“シンルンボ”で生まれ、私達の関係は教師としてそして友人としてとても暖かいものでした。
その後彼の助言により、楽しみとしてクラスを受け始めました。しかしその後すぐホセは体調を崩し私達にクラス代行を求めてきました。このようにして私達はタンゴに戻ってきました。

数年後、素晴らしいダンサーであり大切な友達であったホランパゾを失うという悲痛を体験し、スンダーランドのクラブの理事からの要請で彼のクラスを引き継ぐ事になりました。このようにして、私達は再度タンゴを教える事に情熱を注ぐ事になりました。偶然な事に、私達は(ミロンガで)踊らなくなって30年程経っていた為、私達の踊りはミロンガからの悪影響を受けていませんでした。その為私達の踊りはタンゴの伝統のルーツ,基になるものを守っていたという幸運に恵まれていたのです。私達の踊りは50年代を反映するもので、それは若者に多大な影響を与え,彼らは私達に熱心にクラスを求めてきました。

どれくらいローサと踊っているかですか?生涯です。私達はとても若い頃から一緒に人生とタンゴを共にしています。私達がタンゴを始めたのは50年代、それは情熱と喜びが満ちあふれていた時代で、二人が青春を謳歌した時代でした。

昔のミロンゲロ達は皆、まさかタンゴで収入を得るなどと考えても見ませんでした。なのでそんな期待も全くなく、タンゴで海外へ旅行できる人など誰もいませんでした。皆ただ音楽が好きでたまらない為に踊り、そしてまた征服の手段として。

踊る場は,女の子達に唯一接近できる切っ掛けの場であり、そして征服する、そのような理由から私達はより上手に踊れる様努力し、自分の存在を浸透させようとしました。

タンゴのために初めて旅に出たのはパリでした。私達は2ヶ月間もの間クラスを教えました。その後数多くの旅行やパフォーマンスが押し寄せてきました、パリのシャリオット劇場、ローマのパルコデ⋅ラ⋅ムジカ、ブエノスアイレスのコロン劇場、東京の劇場、名前に上げられるのは少しですが。私達はまたいくつかの映画や,テレビのドキュメンタリーにも出演しました。

先輩達にいつも言われていた様に、タンゴ絶頂期は40年代,50年代でした。40年代はペトロレオやエル⋅ネグロ⋅マンシニら偉大なミロンゲロ達によってヒロ(回転)が作られました。その時代はまた,カンジェンゲの時代としても知られています。時が経つと共に、その同じタンゴはより繊細にでエレガントに踊られる様になります。サロンスタイルのタンゴではより,エレガンスに重点を置かれました。

ハウスパーティーや近所のダンスクラブへは通常土曜日や日曜日に踊りに行き、女の子達は必ず母親や兄同行で来ました。女の子が単独で踊りに行く事はよく思われませんでした。そこではボレオやガンチョ等は(大変礼儀正しく、失礼に当たらぬ様)使われませんでした。当然別の種類のダンスクラブも同時にあり、それは夜の男と女の場で、殆どが仕事を持たない人たちの集まりでした。

私が過ごした50年代に聴いた音楽はオーケストラによって生演奏されたものです。ディサリ、ダリエンソ,プリグリーセ、カナロ,トロイロ、カロなど様々です。私達が踊りに行った伝統的な地域のクラブと言えば、ブエノスアイレス郊外のサアベドラ,ウルキーサ、ビジャ⋅プジェドン、ビジャ⋅デボト,ビジャ⋅レアル、パテルナル,ビジャ⋅ミトレや他、都市近郊でした。南の方ではもっとちゃきちゃきした違うスタイルで踊られていて、それをタンゴオリジェロと呼んでいました。
私の覚えている50年代スタイルのダンスホールやダンサー達は、(もし忘れてる人がいたらごめんなさい、私ももうずいぶん年を重ねてしまって,記憶からすり抜けてしまうものもあるので...)
サロン⋅アグステオ、オロとサンタフェの所にあるエル⋅パレルモ、ラ⋅アルヘンティーナ、ウルキーサにあるアルムニ、シン⋅ルンボ、ビエント⋅ノルテ、エストゥディアンテ⋅デ⋅ビジャ⋅デボト、モラン、グロリアス⋅アルヘンティーナス、フロレスタ⋅フニオ、ラ⋅エミリアナ、ミトレ、スンダーランド、ピノチョ、17⋅デ⋅オクトゥブレ、カリフォルニア、ペナチョ⋅アズル、フベントゥド⋅デ⋅ベルグラノ、エキスクルシオニスタ、チャカリタ⋅フニオス、ビジャ⋅サホレスなどたくさんあります。
私が絶対的に名前を挙げたいミロンゲロ達は、ホセ⋅バスケス⋅ランパソ、オズバルド⋅モシ、エル⋅ネネ、ミンゴ⋅カノニゴ、ヘラルド⋅ポルタレア、エドゥアルド⋅ペレハ、マイタ、ガジェゴ⋅ビジャラッソ、フラスキト、ペトレロ、エル⋅ホロバド、ビクトル、ネグロ⋅ルイス、トーマス⋅ルイス,ルイス⋅レモス、ミロンギイタ、ホワン⋅カルロス⋅コペス、ロへリオ⋅エル⋅ティオなど、他にも私の思い出せない名前も沢山含め、最も素晴らしいダンサー達がいました。

50年代、タンゴを踊りに行く事は若者にとって女の子に出会える切っ掛けとしての楽しみでもありました。なぜならその時代異性に出会うことは簡単なことではなかったからです。

タンゴはたくさんの感情や心情を込めて踊られていました。歌の歌詞は私達の普段、日常生活で起こる事でした。街の灯りや,石畳の道、母親への思い、女の子への恋い心、ブエノスアイレスが時と共に失ったものです。

私達は皆踊っている時はコード(尊重、礼儀、規則)を守り、決してダンスの列を乱すような事はありませんでした。それは上手くないミロンゲロ達も含めてです。私達は皆同じ気持ち、情緒を持って音楽を解釈していたので、たとえどんなにダンスフロアが混雑していたとしても皆楽しく踊れました。カップル同士が衝突するなどまれで、それはとんでもない事でした。

タンゴが一番低迷していたのは60年代で、その頃は踊りにいく所がまるでなく殆どの場所が閉店していました。
タンゴ自身はとても進化して来たと私は思います。なぜなら、他の流行のダンス、例えばコンテンポラリーやクラッシックなどの動きを取り入れられたからです。見ていて綺麗だと思える物もありまし、タンゴの本質から外れている物もあります。もちろん物事は変わっていくという事、若者は常に新しい物を生み出すという事を人は理解しなくてはいけません。それでいいのです。

タンゴの歴史家によると、タンゴの起源はアフリカのカンドンベの影響に始まり、その後にエル⋅ミロンゴンからラ⋅ミロンガへ、タンゴ⋅オリジェロ、カンジャンゲ、サロン⋅スタイルと移り変わり、最後に、50年代に始まったタンゴ⋅ファンタジアがステージタンゴの始まりだと思います。

私達にとって、タンゴとはとても特別な物を意味していました。それは常にそうであった様に,今でも尚、私達に音楽やリズムに身をまかせ,互いを抱擁し合いながら、昔の頃に舞い戻りそのメロディーを楽しむ時を与えてくれます。

タンゴは私達に様々な国の人々との出会いを与えてくれ、私達のタンゴの伝統を若い人達や、様々な年齢、種類の人達に伝えさせてくれました。それに加え、私達を愛情と尊敬を持って励ましてくれる人々がいる各国を旅行できるのは、私達が何年も掛けてまいた種のおかげです。それが私達を元気かつ幸せに保ち続けさせくれるのです。
私達の生徒達が世界コンペティションに入賞,優勝し、彼等がダンサーとして、そして人間として成長しているのを見る時、私たちは最高の幸せを味わう事ができます。そして彼等は私達のなじみの音楽を、私達の一部と共に世界へ伝えて行きます。なんと美しい事でしょう!

もし誰かが、“よいタンゴダンサー”になるには何が必要かと訪ねて来たら、私はタンゴのルーツを学ぶ事から始めるべきだと言うでしょう。例えその人がよいダンサーだとしてもタンゴの本質から外れた踊りになり、ただタンゴ音楽に乗って踊られている、(タンゴになっていない)踊りになってしまうからです。よいタンゴダンサーになる為には、タンゴ音楽に熱中し、身を捧げ、継続し、そして“タンゴとは何か”を知っている人に導いてもらう必要があります。またそれに加えて知っておかなくてはいけない諺があります。
Lo que naturea no da, Salamanca non presta
自然が与えなかった者にサラマンカは与えない(どんなに勉強しても始めから持っていないものには与えられない。)人生のすべてがそうである様に、自然に持ている人と持っていない人がいるという事です。

カルロス、ローサ ペレツ



2009年11月19日木曜日

インタビュー3:ホルヘ トーレス


皆様おまたせしました。日本でも御馴染みのホルヘトーレス先生の登場です。今回のインタビューはメールでのやりとりではなく、実際にお会いして行われました。世界を飛び回る多忙なスケジュールのあい間とぬって大変親切に私のこだわった質問に答えて頂きました。お楽しみください。




=2009年 7月、8月 植木 公美子によるインタビュー=

1. どれくらいタンゴを踊っていますか?

私は3歳の頃から踊り始めて、5歳の頃からパフォーマンスしています。私の恩師は、私をいわゆるプロフェッショナルなダンサーとして育てるために、ダンサーとしてスタートしてフォルクローレアルゼンティーナ、バレエ、フラメンコそしてアルゼンチンタンゴを習いました。

私の恩師はノルベルトグイチェンダックといい、彼は私の人生においてとても重要な人です。彼は私にすべてを教えてくれました。どのようにしてダンサーになるか,ダンスをどう敬うか、人生とは...全ての事についてです。彼は本当にたくさんの事を教えてくれ,私は次第に実父より彼と時間を過ごす様になり彼は私の第二の父となり、私の一番の助言者となりました。彼は現在72歳ですが、私は未だにアルゼンチンに帰る度に彼に会いに行きます。彼はコロン劇場の主役級のダンサーでバレエ,フォルクローレ、フラメンコ、タンゴを踊り,ピアニストでもありました。彼は教師として,踊り手として,人として全てにおいて完璧でした。彼はかつてヨーロッパに住んでいましたが70年代初頭にアルゼンチンに戻り何故が私の近所に住む事になりました。私の住んでいた地域はとても小さな町で何故彼が引っ越してきたのか誰もが謎に思いました。が,そのおかげで私は彼に出会う事ができ、彼は私をダンサーになるため育て上げてくれたのです。

10歳まで彼のもとで師事した後私は、国立フォルクローレバレエ団に20歳になるまで所属しました。私が学校に通っていた頃、そこには私よりも数段上手なクラスメイトがたくさんいましたが、その中の多くの者は両親が学費を払い続ける事ができなかったため学校に通い続ける事ができませんでした。もし彼らがそのまま学び続けていたら今の私よりももっと素晴らしいダンサーになっていた事でしょう、しかし皆別の人生を歩んでいます。幸運にも私の両親は私の学費を払い続ける事ができました。私の両親は私を卒業させるため一生懸命働き続けてくれ、そして私は学校を卒業し国立コロン劇場バレエ団に所属しました。

コロン劇場に所属した後、歌手のリベルタラマルケ(カルロスガルデルと同レベルの女性歌手)からの出演依頼があり、私はタンゴダンサーとしてパフォーマンスを始めました。

2. いつ頃タンゴダンサーになろうと決めたのですか?

それは私の選択ではありませんでした。私の先生は全ての種類のダンスを教えてくれました。初めて私達がタンゴを習った時私達はまだ8歳か10歳で、子供だったのでどの種類のダンスもゲームみたいに楽しんで習いました。私達は幼い頃からパフォーマンスをしています、私は5歳からです。なので私達にとっては“プロのダンサーになる”と言う考えはありませんでした。それは自然な事である日,ある瞬間にダンサーになると決めた訳ではないのです。私達は既にダンサーであってそれは当然な事でした。

3.いつからミロンガに行き始めましたか?

20歳になってからです。パフォーマンスをしながら,ダンスを教えて,さらにたくさんの種類のダンスを学んでいた為私はとても忙しく、全く時間がありませんでした.自分の時間は一切無く、寝る暇さえありませんでした。一生懸命働き,自分を限界まで追いつめ、追して、追して、若かったので可也無茶をしました。自分の極限まで挑戦し頑張る毎日でした。

4. そうすると、その頃ミロンガに行くのは仕事の一部だったようですね。

そうですね、その頃は毎日3時間しか寝ていませんでした。一生懸命働き,プライベートの時間は一切なく、友人達とディスコに行く事さえありませんでした。ただ,仕事一本。それっきり!

5.初めてミロンガに行った時どう思いましたか?

何だか怪しい人たちの集まりに思えました、マフィアのような。自分の席に着いているのが一番安全な場所でした。それも出来る限り座高を低く、低くして。立つと何も見えないので、深く低く座っていなければなりません。皆煙草を吸い,部屋の中は煙で充満し真っ白でした。空気がとても悪く何も見えないので,煙を避けるために、深く低く座っていなければなりませんでした。そこが一番安全な場所でした。

6. いつ頃から仕事のためでなく自分の楽しみのためにミロンガに行く様になりましか?

タンゴ一本でやって行こうと決めた後だと思います。バレエを辞め他の全ての種類のダンスを辞めて、アルゼンチンタンゴのみのダンサーになりました。なぜならタンゴが自分を表現するのに一番だと気がついたからです。バレエやアルゼンチンフォルクローレよりも入りやすく,一番、性にあっていました。20才過ぎてからです。

7. 自分はタンゲーロだと思いますかそれともミロンゲーロだと思いますか?

もともとは私はダンサーです。私は現在42歳で,そして39年踊り続けています。私の人生はダンサーになるためだけにありました。そして、わたしの師は私をダンサーにしたかったのでそのような訓練のおかげで私は自然にダンサーとなりました。

しかし,ミロンゲーロ、、、ミロンゲーロであるという響きにはあまり良い響きはありません。昔、ミロンゲーロと言うとそれ以外には無能で、働かず,お金もなく、ただ女性を追いかけ、夜を生きる人々でした。昔は,ミロンゲーロと言えば侮辱に近いものがありました。年月が過ぎ、タンゴビジネスにより“ミロンゲーロ”はひとつの商業用語になりました。現在では、ミロンゲーロスタイル、ミロンゲーロこれこれ、ミロンゲーロあれあれと興行用に使われる“ミロンゲーロ”になりましたが。また,ミロンゲーロと言う言葉の直訳はミロンガに行く人です。しかし、、自分をミロンゲーロと思うかどうかですか?とんでもない!ミローンゲーロとは最低なものだったのですよ。

- そうするとあなたはタンゲーロですか?

そうです。

8.タンゴの何を一番楽しんでいますか?

何か私を驚き続けてさせる感情を楽しみます、その感情は私の血の中で何かくすぐったいような感じで、私を踊らせる物です。たとえ全ての曲や何かを知り尽くしていたとしても、あるひとつの感覚がある特有な形で私の中に入ってきます。そういう物が私を踊らせます。ミロンガでも,もう帰ろうとした時にある曲が流れてきてまた踊りに戻った事はありませんか?食べ物のような物です。自分ではお腹いっぱいでもうこれ以上食べられないと思っていても見たら食べたくなる、、(チョコレートやケーキなど)もう食べられないと言いつつ、ついまた食べてしまう。

9. 踊っている時,一番大切にしている事は何ですか?

私にとって一番大切な事は男と女が二人、一緒に踊っていると言う感覚です。人々はかつて私の事を“踊る男”と呼びました。私は何の変哲もないただの“男”が踊っている様に感じたい。何故かと言うと、私は物心つてからずっとダンサーとして生きてきました。なので私は踊るとき“ダンサーっぽく”見られたくありません。私はその女性と一緒に踊っているある一人の男に見られたいのです。それが私にとって踊るとき一番大切な事です。ダンサーの踊りではなく、もっとリアルでありたい。踊っている一人の男でありたいのです。

10. 何が踊りを美しくしますか?

静寂と鼓動を楽しむ事です。それによりもっと人の奥まで到達でき,パートナーの内部,自分の内部に入って行けます。外側ではありません。奥に入れば入る程、残りは美しくわき上がります。全てを感じる事ができます。

11.タンゴで私達は気品についてよく語ります。何が気品でまた何が気品でないか、説明して頂けますか?

気品と言うのはあなた自身そのものです。あなたは気品がありますかそうでないですか?(ここで、彼は目の前にある塩のボトルを手に取って)これには気品があると思いますか?違いますね、これに気品はない何の変哲もない普通の塩ボトルです。でももしあなたが高級レストランへ行ったら見る物全てに気品がありますよね。何に気品があって何がそうでないか人は知っています。

—しかし、ここ自由の国アメリカでは人々は気品のある物よりもっとカジュアルな物を楽しんでいる様に思えますが。

そうですね。。昔アルゼンチンでは人々は気品がありました。例えば、この間のチャンピオンシップで皆とても気品のある装いをしていました。普段は誰もスーツなんて着ません。何故皆チャンピオンシップの日にスーツを着るのですか?皆気品ある様に見られたいからです。でも,その日だけ身につけるだけで,本物ではありません。

11.よいダンサーとは?

よいダンサーとはたくさんある物から少しを使って踊れる人です。量は質をもみ消します。

12. 何故タンゴは美しいと思いますか?

私の人生において家族の他に大切な2つの情熱があります。それはタンゴと武道です。たとえどれだけ眠くて疲れていても誰かがタンゴか武道の話を始めればものすごい勢いで目を覚まします。どれ程疲れていてもです。

- それは音楽故にですかそれとも歌詞,ダンスですか?

いいえタンゴに含まれる全てです。概してタンゴ全てです。色んな意味でタンゴを愛しています。色んなタンゴを感じるのが本当に好きです。私は1967年に生まれ70年代を生きました。私はタンゴの黄金時代を知りません。そこにいなかったし、全く知りません。なので私は私の観点から,私の世代の観点から感じようとしています。私はNYに住み,アルゼンチンにいつもいる訳ではないのでお年寄りからそれを感じ取る事もできません。お年寄りと話をしたり質問する事でもそれを感じ取る事ができるからです。しかし、最終的に私にとっては彼らのダンスを見れば色んな事を知る事ができます。彼らの踊りを本当によく見れば,穴があく程見れば、彼らの顔が物語る様に彼らの人生の反映を見る事ができます。そして彼等は誰に見られようが気にしません。

ほとんどの若い人たちは他人がどう思うか,なんと言われるかばかリ気にして自身に素直になれないようです。誰でも恋をすると,食べ物ものどを通らなくなり、眠れなくなります。それは魔法です。誰がなんと思うか気にしません。私にとって(タンゴの)美しさとはそうゆう事です。

13.あなたはよく“自分に正直に”とおっしゃいますが、それはダンサーとしてと言う意味ですか?

ダンサーとしてです。一番はダンサーとして,でも人間としてもです。あなたは自分に対して正直でなくてはならないなぜなら私達は皆社会に影響されているからです。例えばあなたがケーキを食べたかったとしますでも他人があなたの事を太っていると思うのであなたはお茶を注文します。あなたは他人がなんと思うか気になるので自分の意志を変えました。これをしたかったのに他人の目が気になりしなかった。それはタンゴの中でもおこります。あなたは本当にしたい事をする代わりに,社会で正しいと言われる事をします。踊るときは誰がどう思うか,なんと言うが、またはこうしなければならないという事を考えるべきではありません。相手と踊る時、相手に近くになればなるほどそれは次第に自分自身との関係になります。あなたは自分に正直でなくてはならず、それはあなた自身との関係なのです。

14. 人を教える時,何を教えようとしていますか?

私は人々に知識を与えたい、そのような努力をしています。私にとって最も重要な事は私は教育者でありたい、と言う事です。私達は皆、自分達を正しい方向へ導いてくれるよいガイドが必要だと信じています。もしも私達が正しい知識で正しくあなたを訓練すればあなたはアルゼンチンタンゴ(文化)にとって有望な人材になります。でももし私が間違った方法で,ただステップのみ教えればそれはゴミを増やすばかりで、アルゼンチンタンゴ(文化)の繁栄に悪影響を与えるだけです。私達には“よいダンサー”が必要なんです。“よいダンサー”とはどの国かは関係はありません。これは私の全ての生徒達に言う事です。

私達にはよいダンサーが必要です。さもなければアルゼンチンタンゴは滅亡してしまいます。タンゴはゴミくずと化してしまいます。

私は生徒達がどのようにしたら簡単に自分を表現できる様に、どうしたらタンゴとは何か理解できる様に、どうしたら自分自身を尊重できる様に,腕の中にいる相手を尊重できる様に、どのように音楽を聴ける様に、また音楽を理解できるよう様になるか、など等たくさんの訓練をする事に興味があります。ただ音楽をかけて踊ればいいと言う物ではありません。“学ぶ”必要があります。理解させる努力をする、これは私達の責任下にあります。人生,ダンス、音楽そして全ての事についての知識を与える、このような仕事をするのが私は好きです。

15.私達に向けて何かメッセージはありますか?

つまらない話に踊らされながらタンゴを踊らないでください。話をしてみたり、学ぶべき人から何かを学んで下さい。残念な事に最近はたくさんの人が無意味に踊らされています。そして問題なのは何もかも皆信じてしまう事です。例えばこの間の(アメリカでの)チャンピオンシップの時、インターネット上で色んな馬鹿げた話が飛び交いました。なぜ皆、何も知らないのに自分が知っていると思うのでしょう。彼らは言う権利があると信じていますが,わたしは気にしません。これから私はアルゼンチンで行われるムンディアルデバイレデタンゴの審査員をする事になっています。と言う事は私はアルゼンチンのタンゴ協会にとってもとても重要な人物だと言う事です。なぜなら私は政府が主催するチャンピオンシップの、色んな国や都市で行われるチャンピオンシップの審査員の一人だからです。だから私は自分の言っている事に自信があるのです。なので、これは私自身に問題がある訳ではではないのです。もし私のやっている事に疑問があるのなら直接聞きにくるべきです。これ以上私達のタンゴの世界をけがすような事は止めるべきです。誰も望んでいません。今年のアメリカでのチャンピオンシップで2人の出場者が私に質問に来ました。素晴らしい事だと思います。その事によって彼らは何か今後のためになる事を見つけたと思います。私は,彼らに“こうゆう事が必要なんです。よく聞きに来てくれました!これで,せめてあなた方がヒントを知っていると言う事がわかって私は本当にうれしい”と伝えました。私は誰かを助けるためにそこにいるのではなく、審査員としているのです。誰かを助けるためでなく、アルゼンチンタンゴを助けるためにいるのです。誰がそこで踊っていようと私には関係ありません。チャンピオンシップに関係している誰かの友達だろうが,妻だろうが,息子だろうが娘だろうが私には関係ありません。私はアルゼンチンタンゴを助けようとしているのです。多分,そんな訳で、NYにいるインストラクター達は審査員になりたくないのでしょう。なぜならここにいる人たちはその事で,彼らを嫌い始めるからです。でも私はそんな事気にしない、私の人生は違う所にあります。私の立場は違います。私にとってタンゴは商売ではないのです。

<2009年7月>

16.“コード(きまり)”とは何ですか?前回までのインタビューで私達は何回もこのコードと言う言葉を耳にしました。私はただ単に一般的な意味のマナーや規則だと思っていましたが、そこにはもっと何か意味が含まれているような気がするのですが。。。.

そうですそれらは全て含まれています。

—日本では、何種類か違う話し方があります。両親に,友達に,先生に,弟に、相手によって使い分けます。この,コードとはそのような物ですか?

そうです、その通りです。コードとは相手を尊重する事によって成り立つ礼儀作法です。その作法はある一つの仲間/関係があって、始めて成り立つものでその関係に属した者にしか理解する事ができません。 今の若い人たちは誰が誰だかも何も知りません。誰も知らないので部外者です。彼等は以前のとても重要なダンサー達をまるで知りません。皆外から来た人たちばかりなので人間関係がありません。なので彼らにはコードが成り立たないのです。彼らには,私達がかつて持っていた“コード”がないのです。

—ブエノスアイレスでさえですか?

私はブエノスアイレスの事をお話ししているのです。コードは消えてしまいました。コードを知る一番の方法は古い世代の人間と接触し学んで行く事なのです。

17. いつがあなたにとってのタンゴの黄金時代はいつでしたか?

現在が黄金時代です。どうしてだかわかりますか?今はもっとタンゴを有り難いと感じられるからです。今やっとタンゴを理解してると言えるようになりました。

タンゴを理解するのにどれくらいかかりましたか?

20歳位の頃、人は皆自分は色んな事を知っていると思います。しかし30代に入るともっと色んな事がわかってきます。それは経験から来ます。あなたの人生の歴史からわかる物です。今私は2度目の結婚ですが、色んな経験を経て何が痛みかわかりました。たくさんの傷を作りそれがどのような物かわかりました。そして,タンゴの歌詞を聞くとまさに自分の気持ちを歌っているのです。私は,どうやって私の気持ちがわかったのかと驚きます。“彼はまさに私の気持ちを歌っている!”と。そしてそれは違う人にも同時に起こります(笑)

それでは,タンゴの歌詞はとても重要だと思いますか?

そうです。歌詞を知らなくては行けません。でなければ、誰かの死について歌っている曲なのに喜びにはね上がり、興奮して踊るなんて事はできません。

私が踊るときは曲に対して即興で踊ります。ピアノと踊るときがあれば,バイオリンと踊るときもあれば、曲によって踊り分けます。

それをステップとリードをしながら、どの様にして一緒に行うのですか?

音楽が自然にそうさせてくれます。そのためには、充分な技を持ち合わせてなくてはいけません。よいリーダーはパートナーを躍らせるよう誘惑することができ、相手の女性の存在を感じる必要があり、自分もそこに存在していています。リードが自分勝手すぎてもだめですし、遠慮しすぎてもだめで相手に思い通りに動いて貰うにはうまく誘導できなくてはいけません。

“信頼は尊重をなくす“

スペイン語にも自信、信頼?という言葉があります。自分の中のいい友達に、わたしはあなたを信頼していますといえます。でもタンゴでは“信頼は尊重をなくす”と言い、とても仲のよい友達と踊ると尊重する心をなくしてしまうと言います。長年の知り合いと踊るときそれは次第に慣れ合いになってしまいます。あなたはその相手が次に何をするかわかってしまい、注意を払うのを忘れていしまいます。

いつも同じ人と同じ曲を踊り、新しさも新鮮さもなくしてしまっている人たちもいます。しかし、初めての人と踊るときは神経を集中させ本当に相手を感じなくてはいけないし、全身全霊でそこに存在しなくてはいけません。なので私は常にパートナーを変えて踊ります。私は常に違う人と踊り、アルゼンチンタンゴを新鮮で新しいものに保っています。

18.年配の方が踊っているのを見る事によってたくさんの事を知ることができるとおっしゃいますが、それはインターネットなどから見てもそれを感じることができるんですか?私は実物を見ることはできないのですが、実際その場で見ないと見れないものなんでしょうか?それとも画像でも見えるんですか?

そうですね、みるといっても違った見方をしなくてはいけません。その人がいったいどういう人物なのか。どういった人生を歩んできたのか、何を乗り越えてきたのか。見ると言ってもただ動きを追うだけではないのです。違う見方をするのです。

—うーん私にはアルゼンチンでどのように人々が暮らしてきたかわからないのでその人がどうゆう人生を歩んできたかは憶測しかねます。やはり理解するためには、基本的な生活状況を知るべきですか?

うーんたぶん、。。。知る必要があると思います。.

—もしくは、その人たちがどういった人だか知っている方が理解しやすい、とか? 

勿論、もしその人たちを知っていればもちろん、もっと興味深くなるでしょうね。。

—また,若い人たちについて,彼らは正直に踊る事を恐れていると言っていましたが。。。。

最終的には彼らは踊りたい様に踊ります、でも彼らは別に経済だの,将来の事を考えている訳ではない、ただ毎晩遊んで楽しみたいだけです。子供を育てて行く事や生活をして行く事、様々な経験を若すぎるためにまだしていない。色々な体験をして初めて人は変わって行くだから若い人たちで人間ができている人は少ないのです。子供でも、幼い頃から沢山の苦労をした為人間が出来上がってる場合もありますし、60歳や70歳になってもまだ人間ができていない人もいます。人生で何が起きたかが人を変えるのであって,年齢ではないからです。

- それが踊りにでると。。

反映としてです。

- ...それが私にはよく見えないのですが、、、。感じる事はできます。踊っている時,それを感じる事はできます、なので私は年配の方と踊るのが好きです。でも,見えないんですよね、、、。

大丈夫です,それは知識で、時間がかかります。学んで行って,わかろうと努力する。。それでいいのです。.

19. よく,様々なタンゴのインストラクターがそれぞれ違ったスタイルで教えますよね。私達はとても戸惑います。ミロンゲーロ,サロン、ファンタジアスタイル。。。とはどういった物なのですか?.

ファンタジアとはカルロスコペロのような,ステージの物です。サロンはとてもシンプルで,気品があってとても繊細な動きをします。参考のために言いますが、皆勘違いをしていると思います。サロンスタイルとはただ歩くだけなのです。クロスさえもしないのです。最近の人たちが踊るサロンはサロンスタイルではありません、あれはタンゴピスタです。それでいて,皆サロンを踊っていると思っている。皆ミロンガでステップを組み合わせて踊るのはピスタです。以前は歩くだけでした。サロンは歩くだけで,形はないのです。

- 形とは?

形とは,ステップを踏む組み合わせの事です。

- そしてタンゴピスタとは?

それは別料金になります。

- 判りました。(笑)

20. 世界的に有名なタンゴダンサーのクラスを受ける時に私が、“ミロンゲーロ”や“ウルキッサ”などを口にするといつも“複雑に考えるな!これはアルゼンチンタンゴだ。”と怒られます。彼らはスタイルについて語るのが嫌いなのでしょうか。

そうですね、それを語っても何の意味もありません。それぞれの地区にはスタイルがあって、みな自分自身のスタイルを持っています。ひとつの決まったスタイルはありません。例えばウルキッサの人を20組あるクラブへ連れてくるとします。彼らは皆同じ様には見えないでしょう。皆,違って見えるはずです。でなければ,皆コピーであってオリジナルではなくなってしまうからです。

そして,アルゼンチンタンゴで最も大切な事は、オリジナルである事です。自分の躍りでなくてはならない、でなければただのコピーになってしまいます。大切なのは自分自身のスタイルに忠実である事です。.

21. どうやって自分の踊りを創りだすのですか?

赤ん坊が言葉を習うのと同じです。はじめ、赤ん坊は何かを言い始めますが,何を言っているかはよくわかりません。彼らは何か音を発していますが誰も理解できる物ではありません。そして,ママ、パパ、など私達が教えた言葉を学び始めます。そして、パパ、ママ、これ、あれなど単語を学んだ後、私達は“ママ大好き”など文を教え始めます。しかし彼らにはまだ,それが何の意味なのかわかりません。ただ繰り返し言っているだけです。まず単語をまねし始めそして文章になります。その後,この単語とあの単語を組み合わせて,違う意味になると言う事を学び始めます。ここに変化が生まれます。その後,母親が教えた言葉だけでなく自分の言葉を話し始めます。

- では,タンゴでもまねする事から始める必要があると。

そのとおりです。まず単語から,そして文章へ最終的に自分のいいたい事を話す。自分の言いたい事がわかれば,自分のスタイルを確立した事になります。

- 始めはまねから初めてもいいのですね。

はい、まねする事,学ぶ事が必要です。それでいいのです。そして徐々に自分のスタイルを確立して行くのです。

しかし今いるインストラクター達には問題があります。私達は生徒を自分の様にするために教えているのではありません。彼らがより自分らしくなれる様教育するのです。これは全く違う事です。ほとんどのインストラクター達は,自分のようになるよう生徒を教えています。コピーを創っているだけです。これはよくありません。“こうゆう踊り方をするあの人は私の生徒です。”という事になるからです。これはひどい。彼らは生徒を台無しにしてしまいます。そうするつもりはなくとも、殺してしまうのと同じようなことです。

私達は,教師である前に教育者でなくてはなりません。教師は生徒達にただ方法を見せますが,それができる様になる為の知識、教育もしくは、自分で決断する力を与えません。教育者はどのようにしたらそれが可能になるかという手段を教えます。しかしあまりにもたくさんのインストラクターがいるために、彼らは何をすべきなのかわかっていません。それは,全ての国で,色んな所でおこっています。ちょっと勉強しただけですぐ教える様になり、たくさんの将来性のあるよいダンサー達をつぶしています。彼らは間違った事を間違った方法で教え,彼らに正当な手段を教えていないのです。.

22. 多くの人は,タンゴのステップを踊っていても,気持ちや,態度がアルゼンチンタンゴでなかったり、また、間違った動きをしても“これは私のスタイルです”と言い切る人もいます。何が,タンゴとタンゴでない物とに分けるのですか?どこからタンゴでなくなってしまうのですか?私達のような外国人にはそれを区別するのはとても難しいのですが、、。

勉強をする事です。

今は,インターネットがあります。昔私達がタンゴを習っていた頃はインターネットなどありませんでした。なので,私達にはあまり情報がありませんでした。情報を得る唯一の方法は誰かと一緒にいたり,クラスをとって皆を観察し,得る物でした。しかし今では,たとえ世界の果てにいたとしてもクリックするだけで,何だって見れてしまいます。たとえタンゴを知らなくても、情報を得る事ができます。今では,タンゴの事は何も知りませんという事の方が難しい。色々見なくてはいけません。今ではあなたがやっているようなたくさんのインタビューもあるし,たくさんの情報もある。一線で活躍する人の話が聞け、色々なヒントを与えられ,それによって何が正しいのか判断する事ができます。昔に比べたらより簡単です。しかし誰がよい教師で,誰が色々知っているかを知ろうとする必要があります。.

-誰がよい教師なのか知るのはとても難しいです。。。

私がいつも生徒達に言うのは、どんな先生に習ったとしても、なぜ,こうしなければならないか,なぜこうしてはいけないかと聞かなくてはいけません。もし,全て答えられれば,その人はよい先生です。もしその人が,“いいからこのようにやって下さい,なぜならこれはこうなのです”と教えたらもうそこへ行くのは辞めた方がいいです。間違いです,なぜならその人は答えを知らないからです。私達は,自分の息子や娘の質問に答える様に,全ての質問に答える必要があります。私達は答えを知っているべきです。なぜなら,彼らににとって私達は模範であるからです。もし私が正しい答えを知らなければ、子供達は母親の所へ聞きに行くでしょう、そして母親も知らなければまた誰かの所へ行くでしょう。私達は,物事を可能にする必要があるのです。そして,可能にするにはどうすればいいか学ぶ必要があります。.

-という事はどれだけ学びたいかというのはその人次第という事ですね。

その人がどれだけ知識に対して貪欲かです。苦労して手に入れた知識は自分の自信になります。自分のための知識です。私がいつも生徒達に言うのは,私がどれだけ教えられるかが問題ではなく、そこからあなた達がどれだけ学べるかが重要なのです。それはどれだけあなたが学ぶ事に対してオープンかという事です。それは私も同様、自分の師から体験した事です。今でも私はアルゼンチンに行く時私の師に会いに行きます。質問は踊る事だけでなくてもいい、人生を語るのです。

ホルヘ トレス

El hombre que bailar

<2009年8月>


 
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