ミロンゲロスの部屋(タンゴを受け継いで行くという事)

アルゼンチンタンゴの先駆者である“ミロンゲーロ”達によるインタビューをシリーズ化しました。

このインタビューの目的は、古い時代より生き,踊り続けて来たミロンゲーロ達の声を聞く事によってアルゼンチンタンゴの歴史、文化,美学を学び、伝統を受け継ぐ事が出来ればと願い始めたものです


2010年6月26日土曜日

インタビュー5:スンダーランドクラブ 

今回はスンダーランドクラブ ”ラ・ミロンガ・デル・ムンド”の主催者グラシエラ&カルロス・マテラ夫妻のインタビューです。 スンダーランドはブエノスアイレスの中で最も重要で評判の高いミロンガのひとつで、ブエノスアイレスの北ヴィジャウルキッサ地方で毎週土曜日に行われています。私はアルゼンチンへ旅立つ前に彼らにインタビューのお願いをしグラシエラとカルロスは快く引き受けて下さいました。このインタビューは2009年12月12日ミロンガの前に1時間程行いました。







スンダーランドはいつ設立されたのですか?

スンダーランドクラブとは地域のコミュニティセンター(公民館のような機関)で93年前に設立されました。ミロンガが始められたのは1940年代です。

あなた方(マテラ夫妻)がミロンガを始められたのですか?

始めたのはタンゴの作詞家で、マリオ・バティステラと言う人です。
 
あなた方がこのミロンガを始めたのは何時からですか?

10年程前から始めました。バティステラ亡き後たくさんの人が主催しましたが、私達に変わって今日まで10年くらいたちます。このミロンガの名前はバティステラ以来”スンダーランド”でしたが””ラ・ミロンガ・デル・ムンド”(世界のミロンガ)は私達が主催している事を表しています。

”エル・ムンド”とい名前の裏にはどんな意図があるのですか?

なぜならガビートや、グロリア&エドワルドのようなタンゴを世界に広めた全ての偉大なダンサー達は皆このクラブから生まれたからです。

スンダーランドはヴィジャウルキッサの地域で創られた特殊な機関で、他のミロンガとは違うと聞きますが、それはどう言った意味なんでしょうか?

このクラブは多くの重要なダンサー達によって出来上がったからです。古い時代から言えば、例えばフィニト、ペトロレオ、ポルタレア、ビジャラソ、ランパソなど。そしてに次の世代にはバラマセダ、彼はウルキッサ出身ではありませんがここで踊っていました。そして、ガビート、ソット,リバロラ、マリア、グロリアとエドワルドなどがいます。皆ここから出ています。

それらのダンサー達の両親もダンサーだったのでしょうか?

いいえ、全てそう言う訳ではありません。ミセエ家のように、子供が全員ダンサーであるケースもありますが彼らの両親はダンサーではありません。ハビエルロドリゲスはここで踊りますが、彼の両親はダンサーではありません。

では、たまたま偶然この地域がよいダンサー達を生み出したのでしょうか?

いいえ、他の地域にもたくさん優れたダンサー達はいました。しかしここウルキッサでは他の地域に比べ質、量共に最強のダンサーを生みました。 よいダンサー達が又よいダンサー達を呼び、出来上がったのです。偶然ではありません。訳があるのです。それはタンゴの黄金時代(40年代)に起こった事です。それらのダンサー達は誰が見ても認識できる、それぞれ違った独自のスタイルを生み出しました。それはカミナンド(歩き)に重視したスタイルです。それはここのダンスフロアーが広い事も要因のひとつでしょう。

その頃この辺りにはたくさんのミロンガがあったのですか?

たくさん、たくさんのミロンガがありました。

そしてここのミロンガだけが残ったという事ですね。

こことシンルンボだけです。たくさんのコミュニティーセンターは残っていますが、ミロンガはもう行われていません。

なぜこのクラブが残ったのでしょうか?

不思議ですね。ここは見ての通り特別な雰囲気がある訳でも無く、高級感もありません。それなのに何故かそうなりました。おかしな物で,フロアーやカーテンなどたくさんの内装を凝らしてみても巧く行かなかった所は沢山あります。ただ何かの力でここが生き残ったとしか言いようがなく、説明する事はできません。私達は宣伝すら殆どしていません。やると言ったらただ,次の週に誰が踊るかというチラシをテーブルに置く程度です。

70年代も営業されていましたか?

いいえ,(とても寂しそうな、厳しい顔で)その頃は独裁政権のころなので,全てのミロンガは閉鎖されていました。再開されたのは80年代です。はっきりとした年は覚えていません。

その頃も皆さんは踊っていたのでしょうか?

もちろんです! (一変して笑顔に!)私達はその頃も踊っていました。その頃私達は何をするよりも増して踊っていました!踊らずにはいられない仲間同士で集まり、20から30のカップルで程いました。私達は毎週集まっては一緒に食べたり踊ったりしていました。

DJはずっと同じ方なのですか?

そうです,マリオ オルランドといってミロンガを始めた当初から10年間同じです。彼にもインタビューしたいですか?    
したいです!ありがとうございます。

主催者として一番大切な事は何ですか?

お客様とふれあう事、私達はエネルギーや暖かさを供給し、家にいる時のような快適さを与えます。一人一人に注意を払い,歓迎し、もちろんよい音楽を提供します。

長年タンゴシーンを見て来られた主催者としてタンゴにおいてどんな変化を感じますか?私はタンゴは変わってきていると思いますが、あなたの立場からはどう思われますか?

そうですね、確かに変化はあります。若い人たち,特に若い世代の人によって変えられて来ています。タンゴシーン全体でいえば変化したと思いますが、しかし 、ここウルキッサのクラブ内では伝統を守っていると 私達 は信じています。私達はいつもタンゴの根源に戻る事に心掛けています。

私がこのインタビューを始めた理由のひとつとして、 急激な外国人の増加がタンゴを変形させているのではないかと思ったからです。

 いやいや、日本の方にそんな事を言われるとは。日本人の方々は我々アルゼンチン人以上に礼儀正しい。我々のほうがよっぽど無礼な事はしょっちゅうだ。

ありがとうございます。でもこのブログはアメリカから発信し、英語がメインです。英語圏のダンサーをターデットに書かれています。
私達のような外国人が正しくタンゴを理解せず、コード(尊重 礼儀 規則)など知らずに、また本質を判らずにいる事が、タンゴを何か別の物に変えてしまっているのではないかと思っているのです。私はそんな人達にタンゴは形を踊るだけでなく、もっと他にも知らなければいけない事があると伝えたい。なぜなら私はどの外国人も、本当のタンゴを知りたい踊りたい思っていると思うのです。私達は、無関心な訳ではない,ただ無知なだけで、ただ知らないだけなのです。そこでもしも差し支えなければ,外国人のどのような箇所が問題だと感じてらしてのるか教えて頂けないでしょうか?それによって私達は学ぶ事ができ,よりよく踊れる様になると思います。(この質問によって彼らはかなり困惑した表情になりましたが、心を開いて正直な話をしてくれました。)

私が彼ら外国人を見ていて思うのは、確かに彼らはとても多くを学びたいと思っている事が判ります。しかし問題なのはタンゴの繊細な部分にはまるで気に留めない。彼らは,技術的な身体の動きだけを学びたいようです。コードについて言えば、彼らは踊っているとき,他のカップル達も周りにいるという事に対して配慮がありません。一緒に踊っているダンスフロアーの人達への注意や気遣いがまるでありません。あっちへ行ったと思ったら、今度はこっちへ行ったり、自分たちの事だけ考えている。マナーがありません。追い越したり、割って入ったりとても失礼です。また、オープンスタイルで踊ったりして、ダンスフロアー上での妨げの1つになっています。なぜなら抱擁は大切な伝達機能であるからです。

私が最近ミロンガへ行くと見られるのは、大多数は引退したお年寄り、次に観光客そして若いアルゼンチン人は皆プロですね。

いやいや、全くその通りで、、、。最近では生徒よりも先生の数の方が多い。本当に先生の数が多くて、ダンスフロアーは” マエストロ”で一杯の状態です。

ずっとその様だったのですか?
 
昔,人々はただ楽しみのためだけに踊っていました。誰もタンゴでお金を稼げるとは思っていなかった。昔は皆で学びあっていました。他の人が見ている所で色んな形を試してみたり、それを今度は自分でやってみたり、お金を払ったり,料金をとったりする物ではありませんでした。男性は男性同士で練習していました。プラクティカは男性のみで行われていました。なぜなら女性はその頃タブーだったのです。また,当時違ったのはよい女性のダンサーは上手に”伴う人”と呼ばれていました。なぜなら昔は女性のパートはもっと複雑な物でした。今の女性達は自由に自分のパートを踊っています。

最後に、あなた方の 将来のタンゴへの 願いを教えて下さい。
 
私達の願いはタンゴがもっと発展して,世界中に知れ渡る事です。世界と言っても色んな意味があります。全ての文化や人々にと言う事です。もっともっと有名になったらもっと違った文化に取り入れられるでしょう。でも正しい方法で根源を変えずに。。現在たくさんの場所でタンゴが踊られていますが、皆さんタンゴの本質や伝統を理解せずに踊っているような気がします。
私は,タンゴの繁栄を願っていますが尊重とタンゴの本質の理解を忘れないで、タンゴを何か別のものにしないで欲しいです。伝統にそった踊りをして欲しいです。

お時間頂きありがとうございました。





1 comments:

Clara Kumiko Ueki さんのコメント...

NYへ戻ってから早速このミロンガの創設者、マリオ⋅バティステラについて調べてみました。すると何と言う事でしょう!バティステラは Cuartito Azul (”青い部屋” マリアノ⋅モレスが作曲した処女作)の作詞をした人と判りました。

なぜそんなにも驚くかと言うと、このブログのタイトル Cuartito de los Milongueros を決める時、このタイトル名はこの曲にちなんでつけたからです。スペイン語で”部屋”は沢山の言い方がありますが、この場合の部屋 Cuartito は小部屋、それも私室を表します。詩の内容は”青い小部屋に入ると思い出す、昔の思い出、僕のすべて。あの素晴らしい、美しいかった時よ!”のような事を歌っています。(青いペンキは貧しさを表しているのでしょう。)

私はこのブログを創ると決めた時イグナシオ⋅コルシーニの歌うこの曲が頭の中を流れました。実はその時はそんなにも歌詞を知っていた訳ではないのですが、”これだあ!!”とピンと来た物がありました。今おじいちゃんになったミロンゲロス達に、”あの頃は僕たちは、、”というようなインタビューがしたいと思ったからです。

そんな思いのあるこのブログにその作詞家の創設したミロンガを紹介する事が出来て私の中で何かとてつもない幸せを感じるのです。周りの友達に興奮して伝えたけれど、判ってくれた人は殆どいなかったのですが、、、。

でもこれを機会にもし良かったら "Cuartito Azul" を聴いてみて下さい。ミロンガではフランシスコ⋅カナロのバージョンが良く掛かる様です。

くみこ

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