ミロンゲロスの部屋(タンゴを受け継いで行くという事)

アルゼンチンタンゴの先駆者である“ミロンゲーロ”達によるインタビューをシリーズ化しました。

このインタビューの目的は、古い時代より生き,踊り続けて来たミロンゲーロ達の声を聞く事によってアルゼンチンタンゴの歴史、文化,美学を学び、伝統を受け継ぐ事が出来ればと願い始めたものです


2009年9月27日日曜日

インタビュー2:ラウール ブラボー 


第二回インタビューはラウールブラボー氏です。前回ファクンドにこのインタビューにふさわしい方を紹介してくださいとお願いした所、是非ブラボー氏をと、紹介して頂きました。正直な所、私はブラボー氏の事をあまり知りませんでした。確か、アリシア·モンティがカルロス·コペロの後に組んでたおじいさんで、トダロスタイルで有名なミロンゲロ、位の事しか知りませんでした。インタビューを読み終えてみると、とても礼儀、わきまえなどに厳しかった方のようです。だからファクンドが紹介したかったのでしょうか?彼も50年代、タンゴ全盛期から踊り続けている数少ないミロンゲロの一人です。このインタビューを通してタンゴが独裁政権の中どのように生き抜いて来たか、理解して頂けると嬉しいです。 公美子
=2009年5月 植木 公美子によるインタビュー=
.何年タンゴを踊っていますか?
プロのダンサーとして50年、今も教えています。トータルで55年になります。
2.あなたがタンゴを始めたとき、タンゴシーンはどのような感じでしたか?
私がタンゴを踊り始めた頃のタンゴシーン今日の様子とは随分違います。昔人々はタンゴが好きで堪らない為始めましたが、今の若い人たちはタンゴが良い収入源になる為に始める様です。少なくともアルゼンチンではそうです。
3.かつての男女比はどうでしたか?
常に女性が多いのは通常ですが、その当時の男女の比率は同じくらいでした。
4.その頃の人達はミロンガで踊れるようになるまでに、ニューヨークと同様クラスに通ったのでしょうか? 男性はだいたいどれ位の期間、どれくらいの金額を掛けて(現在のお金で)踊れる様になりましたか?あなたはクラスを受けに行きましたか?
教室はいくつもありました。ただ、クラブなどで教えたりプラクティカで友達同士で練習したり教えあったりして、学校もありました。練習量はそれぞれ個人で異なります。
ダンスを習いに行ったのは心から踊りたいという気持ちからで、職業とは関係ありませんでした。ただ素朴に自分の楽しみの為でプロになる為ではありませんでした。お金につながるものではありませんでした。
私が最初にタンゴの基礎を習った先生はサンタフェ出身のギネリー兄弟という芸名を持つ人たちでした。そして彼らが教えてくれた事を学び、短いトレーニングの後1年で私はプロとして踊っていました。
5. 以前リーダー達はよく座って見ている事が多かったと聞きます。(残念ながらNYではあまり行われていませんが)、それはどれくらいの期間を要するものなんでしょうか? 何日間か、何週間かそれとも何ヶ月もですか?あなたはどうでしたか?何を見て、どんな動きに注意を払いましたか?どれくらいの期間ですか?
確かにそうです。学ぶにはその場を観察する事から始まりました。そして仲間への気配り、尊重し合えるようになるまでには(自分の分を見つけるには)、それぞれ個人によって必要な時間は違い、皆同じではありません。そのミロンガの雰囲気(場)を理解するには、どの人達が一番尊敬され、誰がより踊どり、そして誰がより考えていたか、などを知る事が不可欠でした。何故かと言うと、今のミロンガの雰囲気は昔のミロンガのあり方とはまるで違い、同じではなかったからです。
男性のありかた、そして女性も違いました。ルール(礼儀、規律)は大切に守られ、コード(慎み、わきまえ、配慮など)が重視されていました。男性は男らしく女性は女らしく。私がごく一般のミロンゲーロの一人として、ミロンガを見ていたときは、皆お互いへの気配り、尊重ががきちんとなされ、私のミロンガ場の管理の仕方に皆敬意を払っていました。みなそれぞれきちんと自分の位置に収まっていました。
6. 初めて女性をダンスに誘ったときの事を覚えていますか?
いや、いや、もう覚えていませんね。もう何年も大昔の事で、覚えていないダンサー達もたくさんいます。もちろん、初めてのダンスはとても緊張するのでどちらかと言えば失敗する事が多いです。
7. 昔、練習するとき男性同士でしていたと聞きますが、あなたもそうされましたか? それとも、それはもっと昔の事なのでしょうか? そうであればいつ頃の話ですか?
そうですね、私も男性と習いましたし、男性同士で練習しに行っていました。よく行っていたのは、デポルティボ··バラガ という300のベレツ·サーフィールドにある所でした。その他には、場所はよく覚えていませんがポンペヤのクラブ·フェレチャ··オロというところへ行っていました。タンゴやプラクティカの流行の頂点は50年代や60年代でした。
8. ファクンド氏のインタビューの中で、彼はミロンゲーロは彼らの生徒に何ヶ月も歩く練習をさせると言っていました.通常歩く練習は一人でしたのでしょうか? もしくはパートナーと一緒にしましたか? プラクティカは男性が多かったですか?
そうですね、プラクティカには女性はいませんでした。上手に歩く事ができるというのはタンゴの基本です。プラクティカには集まった仲間同士の中で上級者が他の人達に基本の動きやステップを見せたり教えたりして練習しました。プラクティカは男性だけのもので、そこで習得した事をミロンガで女性と踊りました。
9. かつてはワークショップを受けるよりプラクティカに行く方が主流だったと聞きましたがそれはなぜですか?
いや、そんな事はありません。その頃人々は近所にあるミロンガへ行き、母親が娘を連れて行けるような家庭的な集まりで踊っていました。もしくは、毎週順番で親戚/家族の家に集まり、そこにはご近所さん達も全員集まって踊りました。礼儀、わきまえが尊重された古き良き時代です。
ワークショップは”アカデミー”と呼ばれていましたが、40年代から80年代の間は、タンゴ教師であったり、アカデミーを開いていると世間から白い目で見られました。
私もタンゴ教師であるが為に拒絶され、何年間も苦しみました。世間一般を始め、地方自治体もそして政府からも拒絶を受けました。警察はタンゴの教師をジゴロとみなし、女性は娼婦のごとく扱いました。70年代に入り、タンゴが海外へ流出された事によって少しずつ”ダンス”として認識されたのは本当にありがたい事です。  
10. プラクティカが主流だったのにも関わらず、あなたはタンゴの学校をアントニオ·トダロ氏と開きました。それはなぜですか?プロのための学校ですか?その学校についお話し頂けますか?
プラクティカは学校とは違います。プラクティカには先生はいません。ただタンゴを愛するもの達の集まりで、(その当時独裁政権の為タンゴは御法度だったので)仲間で集まる事自体が、タンゴに対する唯一できる貢献であり、祝杯でした。より知っている者が知らない者へ伝えて行く場で、学校は違います。学校は教師から学ぶ事に対し料金を課します。そして一緒に練習をしてくれるダンサーにお金を払います。
私は師匠達と供に1960年にキャピタルのアベニダ·リバダビアにあるアカデミア··パゾと言う所で教え始め、そこでトダロ氏と出会いました。私達は3年間別々のスケジュールで働き、その後私達は独立して自分達のタンゴ教室を開き、その共同経営は17年間を続きました。始めの学校はトダロ·ブラボーと名付けられ、リバダビアとミシオネス通りにありました。2つ目はリバダビアとロハスにありました。1980年に学校は閉鎖され私達は別々にビジネスを始めました。
11. あなたはステージタンゴのダンサーの名人として知られていますが、歴史的にミロンガでパフォーマンスをする様になったのはいつ頃ですか?ディサリやダリエンソなどのオーケストラが演奏していた時代からパフォーマンスはあったのでしょうか?もしそうであればどのような方々ですか?
私はパフォーマンスし始めましたが、何時からかを覚えていません。それはある日突然、気がついたら私は働いて、パフォーマンスをしていました。全てが徐々に行われました。私の初のパフォーマンスはフ·ダリエンソオーケストラで1960年のコロンビアで行われました。1955から60年にかけ私は3つのタンゴ·コンペティションに勝ち続け、あるものは4ヶ月間続きました。最初のものはラ·コンフィテリア主催のドミノというスイパッチャとラバジェ通りでのもの、2回目はコンフィテリア·シグロXXというコリエンテスとウルグアイのもの、3回目は3ヶ月も続いたラ·カサ·デル·タンゴでのものでした.
もちろん全てのオーケストラはカフェやクラブで演奏していました。40年代やその後のダンサーは、ティム(歴史に残る名ダンサーの一人)、ホルヘとリリアン·マルケス、ロス·メンデス、エル·ミクスト、ラロ·ベロ、エル·タリラ、ラバンディナ、アルテュリトそして後にホワン·カルロス·コペス、エドワルド·アキンボー、ビルラゾ、トダロ、カリセイ、最後の方の人々は私の年代の人々です。生演奏のオーケストラと踊るのは普通でした。今でもまだいくつかは残っています。クラブは祭りイベントやオーケストラを雇い、多くの客が収容できるようなものでした。
12. かつてオーケストラは色々な地域を演奏してまわっていたと聞きました。彼らは週末のみに演奏していたのですか?それとも平日もですか?
オーケストラは通常週末はブエノス·アイレスや近郊を回って演奏していました。平日はカフェやラジオで演奏していました。
13. オーケストラを収容するためにはかなり大きなスペースが必要とされると思いますが、今でもそのようなダンスホールは残っていますか?
その時代人々が踊っていたダンスホール大きさはダンサー達の量からすると比較的大きかったです。タンゴ人口が4倍に増えた事を忘れては行けません。そのようなサロンは未だにあります。例えば、サロン·アグステオ、サロン·レデュッチ、セントロ·イタリアーノ、サロン·サン·ホセ、セントロ··アルマセネロ、セントロ·ガジェホ、やまだまだ思い浮かばない名前がたくさんあります。
14. カニング、アルマグロ、スンダーランドのような有名なミロンガはいつ始まったのですか?そこでもオーケストラの演奏はありますか?
15. DJや録音された音楽を使ったミロンガはいつ始まりましたか?
14. 15. サロン·カニングやアルマグロは70年代以降の産物で、スンダーランドはそれらとは違います。スンダーランドは、ウルキサの地域の人々とともに生きずいた長いタンゴの歴史を持つ地域の機関です。
もちろん全てのサロンがオーケストラを呼んでいました。中にはその時は有名ではなかったけれど有能なミュージシャンで構成されたオーケストラで後になってから有名になる場合もありました。
録音された音楽を使うようになったのは私達の愛する大切なアルゼンチンが独裁政権になってから始まりました。オーケストラは予算を削除せざるを得なくなり同時にミュージシャンが削除されて行き、踊る為の音楽はその当時の主流(ロックンロール)やジャズ、それか中米音楽に代わり、タンゴはそのあい間に録音されたものが掛かかる程度でした。(30分くらい)。
16. 70年代タンゴはあまり踊られなかったですが、あなたはミロンガに行っていましたか?どのくらいの頻度で?人々はどのような場所に踊りに行っていたのですか?その頃のミロンガはどんな感じですか?
70年代ミロンゲーロ達の間でタンゴは無くなる事はありませんでした。政府の強い抑圧を避けながらも、タンゴは開かれていました。名前を挙げると、エル·プルメリジョ、カンティナ、ラ·アミスタッド、ラ·パジャンカ、エル·ファロリト、エル·リコン·デ·ロス·アルティスタス、ボスタンゴ、これらはタンゴの歴史を知っていると名乗る者であれば忘れてはならないものです。70年代タンゴを踊りに行くという行為は最終的に警察で取り調べを受けたり、牢屋へ行くはめになってしまう覚悟の上の事でした。
17. 80年代、タンゴはどのように人々と供にミロンガへ戻ってきたのですか?
80年代以降になり一般の人々もタンゴを踊り始めるようになりました。それは独裁政権が終わりを告げる事になり、わたし達は自己を発見し、禁止事項から解放されたからです。タンゴは熱狂的に再開され政府(文化庁)もタンゴを自国の文化としての認識しました。
18. 現在のミロンガで嬉しく思う事、そして昔のミロンガが惜しまれる事はありますか?
過去に戻りたい気持ちはありません。私はその時を生き、そして楽しみました。最近はミロンガへあまり行かないので現在のミロンガについての意見は言えません。招待されれば行きますがあまり頻繁ではありません。
19. タンゴは今日までにどのよに変化してきましたか?その変化に対してどう感じますか?
何がタンゴを変えたか??タンゴはタンゴです。変わった人、変革的な人は常にどこにでもいます。でもタンゴはそうあるべきなのです。もしジャンプしたければする...あなたがダンスで男らしさや甘さ、情熱を見せたければそれを見せるべきです.誰がより巧みな技を使い誰がより飛べるかではなく、問題は抱擁です。目の前のその体を包み込む事です。そして踊っている事を感じる事です。

20. タンゴを踊っている時何を楽しんでいますか?

若い頃はよく楽しみました。少ししか踊らなくてもお気に入りのオーケストラの音楽からたくさんの事を感じる事ができました。そしてタンゴの歌詞も私の存在(愛)を映し出していました。それが若さを生きるという事です。
21. あなたにとってタンゴはなぜ美しいのですか?
私にとって大切なものは全てタンゴに含まれています。愛、痛み、友情、夢、ダンス、願望..etc
22. あなたが踊る時一番大切にしている事は何ですか?
音楽を楽しみその時を尊重する事
23. 何が踊りを美しく見せますか?
簡素な動きとダンスフロアにいる人々への尊重(配慮)
24. どうしたらわたしたちはよいミロンゲーロになりますか?
それは持って生まれたもので、持ってない人に教える事はできません。どんなに勉強しても、出しゃばってみても、知識を持ったとしても、大切なのは価値や決まりを理解する事です。
25. 他に何か伝えたい事はありますか?
いいえ、タンゴはもう既に創られました。私達に必要な事はそれを守って行く努力です。
26.アルゼンチンタンゴの将来に願う事は?
常に納得のいく評価、そして私達を世界に向けて代表するミュージシャンとダンサーを持つ事です。
27.何か私達へのメッセージはありますか?
アドバイスはありませんただ心からありがとうと言いたいです。私達の愛するアルゼンチンから飛行機に乗って遠く離れたニューヨークから私達のダンスを表してくれる人として、そしてタンゴの魔法が消えない様に心配してくれる人として。。ありがとう、ありがとう。。尊敬と親しみを込めた握手をもって。
ラウール·ブラボー
ラウールの教えた生徒達  Roberto Reis y Guillermina Quiroga,Gabriel Angio, Natalia Gamez, Carlos Copello, Alicia Monti, Julio Mendez, Ricardo Gallo, Pancho Martinez Pei, Pedro Calveira, Nora Robles, Alejandra Arruè y Sergio Natario, Gabriela Elias y Eduardo Perez, Stella Barba, Cristian Marquez y Virginia Gomez, Hernan Villegas y Gladis Colombo, Emiliano y Debra, German Cassano , Giraldo Diomar, Eduardo Sotelo, Miguel A. Plas, Rodolfo Ruiz, Pablo Villarraza , Lalo y Mirta, Holanda, Sandor y Miriam, EE.UU. Julio Mendez y Ana, Ruth Manonella y Andreas Erbsen, Gustavo Rosa.


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